京都ハンナリーズブースターのわたくし。
時代の変化とともに、ハンナリーズもメンバーがほとんど入れ替わり、私が応援をはじめた頃のチームから残るのは内海選手だけ。てか内海選手がハンナリーズに加入した年から応援し始めました。
それから数多くの選手がハンナリーズに在籍することになります。出会いと別れを繰り返しながら月日は流れます。もちろん現在進行形で今のチーム、選手を応援しているのですが、少し昔を懐かしむことも多くなってきました。
今日はその中でも一番わたしが好きだった選手のデイビット・パルマ―について思い返し、記事として残しておきたいと思います。
デイビットパルマ―とは?
アメリカ出身
1982年1月12日生まれ
背番号12
ポジションはスモールフォワードが主戦場
2005年にまだ日本のバスケットボールリーグがNBLとbjリーグの2つに分かれていた時代に大阪エヴェッサに所属したことが日本でのキャリアのはじまりです。
プレースタイル
パルマ―のプレースタイルは、非常にかしこい選手で、スリーも打てるし、ペネトレイトもできるオールラウンダー型の点取り屋という印象です。ただ、過去の成績を見ると特に京都では平均得点15点を超えることはなく、だいたい13~14点くらい。当時のbjリーグが外国籍選手が4名までベンチ入りして4クォーター中半分は、外国籍選手3名がコートに立てたということもあり、得点が分散していたことも関係しているかもしれません。点取り屋でありながら、アンセルフィッシュな選手で、そのパルマ―のプレースタイルが当時のハンナリーズがbjリーグの中でも有数の強豪チームとして名をはせることができた大きな要因であったと思います。また、フリースローが上手く、よくファウルをもらって打つのですが9割くらいは入ります。
忘れられない、いや忘れるられるはずのない引退時の輝き
パルマ―選手は、2015年シーズンの途中で引退となったのですが、この引退したときの姿が本当に忘れられません。引退の理由としては、ケガと健康上の理由で肉体が限界に達したためということだったのですが、ブースターが知ったのは最後のゲームとなった福島ファイアーボンズとの2連戦が終わった2日後。突如パルマ―の引退が発表されたのです。
結果的に引退試合となった福島との闘いは凄まじいものでした。2日間のパルマ―は、神がかっていて怖いくらいでした。
5日の対戦では、3度の延長戦を制し、30得点19リバウンド。
6日の試合では28点14リバウンド。
この時、それまでチームをひっぱってきていたトップスコアラーのラリーオーウェンス選手が膝を怪我してシーズンを離脱しており、外国籍選手がパルマ―と確かコッツァーだけの心細い状況だったと思います。確かこの辺りで大分に所属していたデロチョウスキーと一時的に契約したりとかチームがバタバタしていたんです。
ラリーがいないけど、パルマ―がなんとかしてくれるだろうとみんなが思っていた中で最後の福島2連戦はとんでもない活躍でした。
今思い返すと本当体はぼろぼろだったのでしょうが、鬼気迫る感じが伝わってきていて、気持ちだけでプレーしていたんだと思います。
12月8日に引退の発表があった時には、ちょうど仕事をしていた時にニュースに気づいたのですが、そのあと自分が何をしていたのか全く思い出せないほど、悲しい気持ちになりました。
ぼろぼろの状態だけど、最後に気力を振り絞って、気持ちだけで点をとりまくる。そして引退をする。
かっこよすぎるやろ!
正直、福島戦を思い出す度に今だに涙がでてきます。
思えば、試合が終わった後、チームメイトの日下選手をはじめ多くの選手が泣いていて、確かに厳しいゲームを勝てたことはよかったけど、なんでレギュラーシーズンのひとつのゲームの勝利で泣いてるんだろうな?と思ってたんです。でも、ハンナリーズの選手にとってただのゲームじゃなかったんです。
この辺りのことを他のハンナリーズブースターさんたちと語り合ったら、自分は今でも泣く自信があります。本当にいろんな感情がジェットコースターの様に浮き沈みした、忘れられないシーズンであり、チームであり、選手だった。
パルマ―選手が在籍していためちゃくちゃ強かったbjリーグ時代でさえ、最終的にはチャンピョンになることは出来ていないハンナリーズ。それでもそれぞれのシーズンに忘れられない思い出があります。
私はパルマ―選手が一番好きですが、いつの日かコーチとかで戻ってきてくれるんじゃないかなと淡い期待を寄せながら、待っています。
結論とくにないですが、パルマー、本当に好きだ。ただそれだけ。
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